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今日のつれづれ日記 ~再投稿




最近の糸井重里氏のコラムで、マンションに巣を作って暮らしているツバメを題材にして書かれていたこと。

だれの家のツバメでもないんだけど、なんとなくマンションの人々にとっての「守るべきもの」として、そこにいる。
猫たちもそうだけど、だれのものでもなく暮らせる生きものたちって、なんだかいいもんだなぁと思うんですよ。
「だれかのもの」として所有が問われないものって、なんだか、人をらくにしてくれますよねぇ、と。

うんうん。
僕はツバメのような立場でいたい。

どこかのグループに所属してるとか、何派とか、出身国がどうとか、本当は会社に所属することもそうなんだけど、
なんかの集団の一人になるというか、グループに身をゆだねるってことが、どうも窮屈に感じちゃいます。
とうぜん、人のことも束縛しようとか、ずっと一緒にいよう、みたいな発想もないですし。
だから友達が少ないんだけど。。。(苦笑)

そうかといって、すごい主張を持って独立して事業を立ち上げようという気概もないので、なんとなく流れる川に乗ってここまでやってきてます。
今さら急に思い出したように、あわてて独立するのもどうかなと思うし。

でもやっぱり、どこか一つの集団に身をあずけることはとても窮屈なので、
「組織の中の自由」みたいな環境を作っていきたいなぁ、なんて思ったりしました。

僕の場合はやっぱ「自由」がキーワードなのかな。


そして今日は、茂木健一郎氏、恒例の連続ツイートを目にしました。
テーマは「自分の関わる集団を、多様にすること」。
これは大津市のいじめによる自殺のことからはじまった内容。

日本において「学校」とかの集団の意味が強すぎることが問題だと。
うまくいかなくなった場合に逃げ場がなくなってしまう。

そういう時に、他の居場所があればいい。

複数の集団と関わることは、いじめる側にもいい処方で
関わる集団が多いほど「利他性」というものが育まれるらしい。
ある意味、「大局的」に物事が見えるようになるのかもしれないですね。

集団のなかでうまくいってようが、いってなかろうが
特定の集団でアイデンティティを確立しようという生き方は
決して人を強くするものではないと。

昨日まで大企業で「部長」と呼ばれていた人が、退職してただの人になる。
「所属」で人を成すとそういうことになる。


何かに「頼りきる」とか「すがる」ってのは自分で自分の世界を狭め、
素直な心からの判断を見失い、自身を弱くしてしまうことがあります。

たまたま僕の価値観が所属に身をゆだねるのが苦手というのがあり
コミュニティに積極的に関わって来なかった僕の反省も含め
わが子たちには複数の居場所を用意してあげようと、あらためて思いました。

学校、習い事、スポーツクラブ、趣味サークル、それぞれの上達を目指すことだけを目的にするのではなく
いろんな社会と関わること、複数の居場所となるコミュニティがあることを目的にしてもいいのではないかと。
心の安定が生まれ、広い視野で物事が見られるようになるのではないかと思った次第です。

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